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昭和50年代の後半から宍道湖のヤマトシジミは、
宍道湖の貴重な水環境を守るシンボルとして、
宍道湖淡水化事業反対運動の象徴的な役割を担うこととなりました。

宍道湖しじみ、最大の危機

淡水化事業とは、宍道湖を淡水化して農業のために利用しようという事業ですが、全国にコメが余り減反政策の始まっていた当時としては、すでに目的を失っていた事業でした。

淡水化事業の始まり

1933 大正末から大橋川浚渫・拡幅事業開始。以降、宍道湖で塩害が起こりやすくなる。
(川の面積が1.5倍になり宍道湖の塩分上昇)
1954 島根県が「斐伊川・宍道湖・中海総合開発計画」をまとめる
1955 農水省が干拓淡水化を計画
1960 島根県から漁協に干拓淡水化の要請→反対・決裂
世間からは国の事業に反対するのは国賊だ!と批判の声があがる。
1965 漁協との交渉開始。以後155回もの協議を重ねる。
1967 漁業補償交渉妥結(6億2500万円)
この事業に今後一切異議申し立てしないとの覚書をかわし、島根県が宍道湖淡水化後の水産振興を約束する。
1968 中海干拓・淡水化工事がスタート

漁師が一丸となって立ち上がった

淡水化反対運動は宍道湖流域住民の大運動となり、その中でもシジミ漁業者はその中心として活動し、反対のための大規模な集会や漁船パレード、また、食卓からシジミ汁が無くなる事を訴えながら、シジミの無料配布などの活動を精力的に実施しました。

世界湖沼会議でのシジミ無料配布 昭和59年 世界湖沼会議でのシジミ無料配布(大津市)
銀座でのシジミ無料配布のようす 昭和61年 銀座でのシジミ無料配布のようす

淡水化反対運動

1982 宍道湖・中海両漁協で農水省へ淡水化事業延期の署名活動開始。
漁師の反対運動も高まり始める。しかし、漁協は補償金をもらい、覚書に事業協力・異議申し立てをしないことを約束したため、漁協は前面に立てなかった。その代わり、蜆組合が運動の中心となる。 一度補償金をもらった宍道湖漁協が、淡水化事業反対運動に参加することへ批判が殺到。運動に参加するために、しじみ組合の臨時総会を開き、1人100万円の保証金返還を決議。
1984 2億5千万円(シジミ漁に関する部分)の小切手を持って、農水大臣へ補償金返還行動をする。この行動が広く市民の共感を呼び、反対の機運高まる。
琵琶湖で世界湖沼会議開催。福田正明議員が淡水化中止を訴える。会場の外でシジミを無料配布。その後、幾多の署名活動や反対集会等に参加。
1986 国会の全議員にシジミ配布。銀座でシジミ汁とシジミ(5トン)の無料配布。
1987 5月 1万人集会、250隻の海上漁船パレード開催。
昭和62年 漁船250隻でのパレードのようす

受け継がれた宍道湖

鯨岡議員(中央)の仲介で佐藤農水大臣(左)に補償金返還を申し出たようす 鯨岡議員(中央)の仲介で佐藤農水大臣(左)に補償金返還を申し出たようす

運動によって淡水化に批判的な世論も高まり、昭和63年に事業は凍結され、事実上中止となりました。宍道湖の流域住民の皆で守った宍道湖の自然環境をいつまでも大切に守りたいものです。

次世代への動き

1988 2月 竹下首相「県民のニーズが変わった」と国会答弁
5月 島根・鳥取両県知事が淡水化の延期を発表
7月 佐藤農水大臣が淡水化延期の正式表明
1989 2月 「宍道湖・中海汽水湖研究所」設立
1999 本庄工区検討委員会を傍聴(岡山)シジミ操業を休んで第2回~12回を傍聴する
2000 9月 農政局 本庄工区の干陸中止を表明
2002 12月 澄田知事、農政局 「淡水化事業」の中止表明

複雑な時代背景の中で、翻弄された「宍道湖の淡水化事業」。多くの方々にご指導をいただき、しじみ漁業が継続できることに感謝し、先輩達から受け継いだ宍道湖の漁業が地域の産業として、また地域の産業として評価されること、守り続けること、次世代に繋げていくことが私達しじみ漁師の使命です。